コロナ禍で売り上げ4分の1に
デコルテは1983年、佳李さんの父で現社長の正雄さん(70)が創業。ユナイテッドアローズやベイクルーズなど有力セレクトショップを展開するアパレルと直接取引を重ね、提案型のOEMで技術とセンスを磨きました。
佳李さんがデコルテに入社したのは2012年。短大卒業後、大手アパレル企業の販売職などを経験しましたが、デコルテの経理担当者が高齢だったこともあり「手伝ってくれないか」と声がかかりました。
当時は継ぐつもりは全くなく、気軽な気持ちで引き受けたといいます。学生時代に工場で靴作りの一部を手伝うなど職人とも顔なじみで、抵抗はありませんでした。
しかし、コロナ禍で事態は一転します。百貨店や商業施設の休業のあおりを受けてアパレルは販売不振に陥り、各企業は商品の生産量を絞るように。革靴の中高級品市場も停滞し、ピーク時の2014年には6万5千足あったデコルテの年間生産数は21年には2万5千足に減り、売上高も約4分の1となりました。
「このままでは会社がなくなってしまうかも」。そんな危機感から、社員6人全員で今後を話し合うことになりました。
「自分が引き受けるしかない」
正雄さんはまず、営業のキャリア30年以上の社員に「社長にならないか」と投げかけました。しかし「キャリアのある営業はできるけれど、経営は無理です」と断られます。
そこで佳李さんは「自分が引き受けるしかない」と決意を固めました。取引先などから「いずれは後を継ぐのでしょう」と言われることはありましたが、ベテラン社員が継ぐことを想定して「サポートに回ろう」と考えていたそうです。
正雄さんは「もし継がないと言われたら、事業を縮小するかやめるか、決断しようと考えていました」と振り返ります。「厳しい時代だから経営は簡単ではない」と、佳李さんに継承を促すつもりもありませんでした。
しかし、佳李さんが2代目に手を挙げてくれてよかったと感じています。
「若い経営者へのバトンタッチは新しい時代にふさわしいと思っています。自分たちの時代に通用したことが今は通用しない。これからの経営は若い感性が必要です」
ミシンを踏む以外は何でも
佳李さんは「正直、どうしてこんな時代に継がなければいけないのかという気持ちもありました」と言います。
しかし、不安以上に「私はかっこよくて唯一無二のデコルテの靴が大好き。この靴作りをなくしたくない」という気持ちが勝りました。
唯一無二の靴を作れるのは、作り手の確かな技術とセンスがあってこそ。「職人さんのことはめちゃくちゃ尊敬しています」。自身も夜間学校に通って靴作りを学びましたが、熟練の職人には到底かないません。
後継者となった今も経理を中心に、会社の業務を幅広くこなします。商談に同行して営業のサポートをしたり、納品用の靴箱に貼るシールを作成したりするのも仕事です。
デジタルツールを使いこなせる強みを生かし、自社のホームページやSNSの更新も担います。「ミシンを踏む以外は何でもやっています」と笑います。
靴の開発で大切にしたこと
佳李さんが新たに挑んだのは、創業以来初の自社ブランドを作ることです。実はコロナ禍の前から温めていたアイデアでした。
「面白い靴を作っているのだから、自社ブランドをやってみたら」という声はもらっていましたが、日々の仕事に追われて具現化できていませんでした。21年5月、「仕事が減った今だからこそやるしかない」と動き始めたのです。
3年ほど前まで「仕事に困る」という状況は考えたこともなく、黙っていても注文が入るため新規営業をかけたこともないほどでした。「資金繰りといかにいい物を作るかだけを考えていればよかった」(正雄さん)。
そんな状況が一変し、佳李さんの中での焦りが新たな挑戦へと変わりました。
自社ブランドの立ち上げで佳李さんが大事にしたのは「みんなでやること」でした。全員に当事者意識を持ってもらうため、週1~3回の打ち合わせは、社長から営業、職人まで全員が参加。「どんな靴を作るか」を細かくすり合わせたのです。
職人気質で口数の少ないメンバーでも「アイデアを考えてきてと言うと、すごくいい案を持ってきてくれたりするんですよ」(佳李さん)。
OEMではできないことを
そうして誕生した自社ブランドは「ジュトメンヌ」と命名。フランス語で「連れて行ってあげる」を意味します。オンオフ問わず幅広いシーンで履けるジャズシューズです。
コロナ禍で外出を制限される中でも、ジュトメンヌを履いて出かけることで「素敵な出会いや出来事が訪れますように」との願いを込めました。
社員全員に共通していたのは「ほかにはない靴を作りたい」という思いでした。営業、生産、企画それぞれの視点を採り入れました。
メンズ、レディース両方の靴を作れる同社の強みを生かし、ジュトメンヌはユニセックスにしました。
見た目はシンプルなデザインですが、同社が得意とする中底を使わないボロネーゼ製法で柔らかな履き心地を実現。世界的に有名なイタリアのビブラム社の靴底を採用するなど、差別化できる機能を盛り込みました。
最もこだわったのは、柔らかな足入れにつながる高反発スポンジを2枚重ねたクッション構造です。
これまでのOEMで、取引先から何度も「足入れの良さが購入の決め手」と聞かされてきました。しかし、できるだけコストの削減が求められるOEMでは、(原価が高い)高反発スポンジを使うことは難しいのが現実です。
そこで、これまでの製造ノウハウを生かしつつ、2万4200円(税込み)という価格設定で「OEMではできないこと」を自社ブランドに詰め込んだのです。
21年5月の走り出しから同年10月の販売開始まで半年もありませんでしたが、短期間で何度も試作を重ね、社員全員の情熱を詰め込んだ靴が完成しました。
初挑戦のCFで達成率1330%
佳李さんは、ジュトメンヌの販売でクラウドファンディング(CF)を活用しようと決めていました。
CFでは試し履きができないため、柔らかなクッション性が伝わるように写真や動画を多めに撮影するなど見せ方を工夫しました。
初めて尽くしの挑戦でしたが、ふたを開けると目標金額30万円に対して約400万円の受注額となりました。達成率約1330%という結果に佳李さんは「こんなに売れるとは思っていませんでした」。
これまでにCFを4回実施しました。今後はジャズシューズ以外の新たなモデルの販売のほか、助成金を活用しながらECサイトのオープンも計画中です。「OEMも大切に続けながら、直販の道を模索したいと考えています」
引き継ぐチャレンジ精神
デコルテは創業当初から靴業界では異色の存在でした。靴メーカーは大手問屋と組んで生産に専念することが当たり前だった時代に、正雄さんはアパレルブランドやセレクトショップと直接取引してOEMやODM(相手先ブランドによる設計・製造)による靴作りで提案力をつけてきました。
そして佳李さんも今、CFによる販路の開拓にチャレンジしています。デコルテのチャレンジ精神をしっかり引き継いでいるようです。
CFではうれしい副産物もありました。「実物を見たい」と言って名古屋から浅草まで来てくれた顧客がいたり、ラジオや新聞などのメディアに取り上げてもらったり。OEMだけでは経験できなかった出会いが広がったのです。
「靴の産地・浅草」を広めたい
CFを活用したのには自社の靴作りへの思いに加え、浅草が靴の産地であることをもっと知ってほしいという狙いもありました。浅草にはメーカーや卸、資材販売店、皮革問屋など、靴に関わる企業やお店が集まり、靴産業の一大集積地となっているのです。
CFのプロジェクトページには、靴の産地への熱い思い、佳李さんの後継者としてのまっすぐな気持ちが丁寧に書かれ、支援者の共感を呼んでいます。
「浅草が靴の産地として150年以上の歴史を持つことを広めるのも、私がやるべき役割の一つだと思っています」
タオルといえば今治、眼鏡といえば鯖江というように「靴といえば浅草」というイメージを定着させることが目標です。
産地にとって職人の高齢化は課題の一つです。「業界に若い人が増えてくれたら浅草の靴作りはゼロにはならない。そのためにもっと産地のことを知ってもらう必要があるのです」
靴作りへの思いをエンジンに
佳李さんは後継者という立場で、社長の隣で経営を勉強する日々です。社長に就くタイミングはまだ決めていませんが、当面は正雄さんが代表取締役会長となる「複数代表体制」も検討しています。
「今は何かあればすぐに相談できますが、社長がいなくなった時のことを考えると不安もあります」と吐露する佳李さんに、正雄さんは「あまり深く考え込まないように」と話します。
「大事なのは商品と信頼。極論を言うと、いい物を納期通りに作っていれば商売は成り立ちます」と正雄さん。佳李さんにとって初めての社長業が重荷になり過ぎないように準備を進めています。
正雄さんは「何でもやらせないと覚えない」という考えで、佳李さんが「やってみたい」と言うことに対して、まずは「やってみたら」と返します。「問題があったら、その都度相談してくれたらいい」
佳李さんは「今がどん底だとしたら、あとは上がっていくだけ。大好きな靴作りを続けるために、できることをやっていくしかないと思っています」と力を込めます。
会社と浅草を盛り上げるため、靴作りへの熱い思いをエンジンに、アクセルを踏む気合は十分です。
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0 Response to "「仕事が減った今だからこそ」 デコルテ2代目が全員参加で作った革靴 - ツギノジダイ"
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