三つ編みのお下げ髪が愛らしい。瞳には心なしか憂いも感じられる。鳥居坂下の麻布十番に立つ少女像。プレートには、こうつづられている。「赤い靴はいてた女の子は今、この街に眠っています」
「赤い靴」とは、だれもが知っている、あの童謡のタイトルだ。多くの人が口ずさむフレーズがある。
横浜の はとばから
船にのって
異人さんに つれられて
行っちゃった
そう、少女は異国に渡っていたと思われていた。だが碑文によれば、船には乗れず、鳥居坂教会の孤児院で九年の短い生涯を終えた。名は「きみちゃん」という。
「きみちゃんが生きた証しを刻んで、より多くの人に童謡『赤い靴』と実在の少女がたどった物語を知ってもらいたいと像を建てました」。麻布十番で洋品店を営んでいた山本仁壽(きみとし)さん(80)はそう振り返る。完成したのは一九八九年。建立の中心メンバーだった。
「きみちゃん」をめぐっては、少女像の碑文に刻まれたように広く伝えられている物語がある。その第一章は童謡ができるまで、第二章は像ができるまでだ。
童謡の始まりは、作詞家野口雨情が知り合いの女性から、生き別れた娘の話を聞いたのがきっかけとされている。この女性、岩崎かよは静岡で未婚ながら長女を産む。「きみちゃん」だ。やがて、後の夫とともに北海道の開拓地に入植することになるが、過酷な地に幼い子を連れて行くのは難しく、人を介して米国人宣教師に託した。かよは、きみちゃんが異国に渡ったと思い込み、雨情もその話を詞にしたといわれる。
第二章は、かよの三女が地元の北海道新聞に、「赤い靴」のモデルは「私の姉でした」と投稿したのが発端となる。これを読んだ北海道テレビが取材を重ね、きみちゃんは結核を患ったため船には乗れず、孤児院に預けられたという説にたどり着いた。七八年にはドキュメンタリーとして全国で放送され、山本さんらも知ることとなり、麻布十番で像が建立される。
母かよは四八年に亡くなっているため、娘の死の真相を知らない。多くの人はその方が良かったと想像するが、山本さんは少し違う捉え方をしている。
像の完成後、きみちゃんとよく遊んだという東洋英和女学院出身の女性から話を聞く機会があった。「学校へ通えなかったきみちゃんを孤児院から女学院の校舎に連れて行ったこともあるそうです。校長室で日なたぼっこしたり、楽しかった思い出などを話してくれました。短い生涯だったけど、笑顔もあったでしょう」
像の足もとに置かれた募金箱には今も、毎日のように寄付が寄せられる。
「除幕して間もなく、小銭が置かれるようになったんです。それで募金箱を置くようになって。以来、集まったお金を毎年、国連児童基金(ユニセフ)に寄付しています。三十年間で千五百万円を超えました」
きみちゃんが「赤い靴」のモデルかどうかは異論もあるが、一人のかわいそうな少女がこの街で亡くなったのは事実だ。山本さんは言う。「きみちゃんを思う善意は国を超え、世界中の恵まれない子どもたちを助けている」
◆「鳥居坂46」になるはずが…
今、女性トップアイドルグループといえば、「乃木坂46」に代表される「坂道シリーズ」だ。最初にデビューした「乃木坂46」に続く第2弾は、「鳥居坂46」のはずだった。最終審査を通過したメンバーのお披露目の席で急きょ、グループ名の変更が発表された。それが「欅(けやき)坂46」。変更の理由は明らかにされず、臆測も話題となった。「欅坂46」はさらに「櫻(さくら)坂46」と改称され現在に至っている。
文・稲熊均/写真・佐藤哲也、中西祥子
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