新型コロナウイルス感染症による発熱の際に、解熱剤としてイブプロフェンを服用すべきなのか、そうではないのか。フランス保健省の通達をきっかけに世界を巡った情報はミスリードの可能性が高いと判明したが、いったいなぜ混乱が生じたのか? その過程を知ることは、わたしたちがニュースをどう消費するかを考える上で重要な教訓になる──。医療ジャーナリストのマリーン・マッケーナによる考察。
TEXT BY MARYN MCKENNA
TRANSLATION BY CHIHIRO OKA
世界保健機関(WHO)は3月半ば、新型コロナウイルスに感染している可能性がある場合は、非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)のイブプロフェンを自らの判断では服用しないように呼びかけた。一部の専門家が同様の見解を示していたこともあり、この情報は瞬く間に世界中に広まった。ところが、WHOは数日後にこれを撤回したのだ。
ネットでは解熱剤としてイブプロフェンを服用することの安全性について、ちょっとした議論が巻き起こった。今回の騒ぎは、パンデミック(世界的大流行)においてどのように自分の身を守るかだけでなく、わたしたちがニュースをどう消費するかを考える上で重要な教訓となるだろう。
各国の政府や医療当局は、新型コロナウイルス感染症「COVID-19」の軽症者に対しては、病院には行かずに自宅療養するよう求めている。わざわざ薬局に行かなくても、たいていの家にある市販薬が使えるなら、もちろん便利だろう。また、イブプロフェンの代替品としてアセトアミノフェンが推奨されたが、研究者たちはアセトアミノフェンに副作用がないわけではないと警告する。
イブプロフェンを使わないようにという情報を広めた人は善意でそうしたのだろうが、偏見のない冷静な判断が働かず、また情報が正確ではなかったことで裏目に出てしまった。誰もが身近にあるもので感染を防ごうとする状況で、わたしたちはパンデミックが引き起こすストレスが誤った情報を拡散してしまう様子を目の当たりにしたのである。
すべては臨床報告に基く仮説から始まった
イブプロフェンを巡る議論が始まったのは、3月11日のことだった。スイスのバーゼル大学病院とギリシャのテッサロニキ・アリストテレス大学の研究者たちが共同で、医学誌『The Lancet Respiratory Medicine』に仮説を発表したのだ。
研究者たちは中国のCOVID-19の重症患者約1,300人を対象にした3件の臨床報告に基づいて、アンジオテンシン変換酵素2(ACE2)と呼ばれる酵素が重症化に関係している可能性があると推測した。なお、この1,300人のうち12〜30パーセントには、既往症として高血圧と糖尿病があった。
新型コロナウイルスは、ACE2受容体を利用して人間の細胞に侵入する。つまり、この酵素がよく作用するようになると、症状が悪化する恐れがあるというのだ。
一方、高血圧と糖尿病の治療にはアンジオテンシン変換酵素(ACE)の働きを抑える作用のあるACE阻害薬が使われるが、この薬はACE2の酵素作用の発現を加速させる。高血圧患者や糖尿病患者が重症化しやすいのは、ACE阻害薬を服用しているためではないかというのが、研究者たちの立てた仮説だった。
仏保健相のツイートが世界へ拡散
そこで登場するのがイブプロフェンだ。イブプロフェンには解熱作用だけでなく抗炎症作用もあり、慢性疾患をもつ患者に投与するとやはりACE2の反応を活性化させる可能性がある。
スイスとギリシャの研究者たちは「これは仮説にすぎない」と明言していたにもかかわらず、3日後の3月14日には、フランスの保健省が新型コロナウイルスの感染者は解熱目的でイブプロフェンを服用しないようにという通達を出した。同省はイブプロフェンの使用について、「感染の可能性がある、もしくは感染が確認されている」場合は「深刻な結果」をもたらしかねないと警告している。
仏保健相のオリヴィエ・ヴェランは同日、イブプロフェンなどの抗炎症薬はCOVID-19の「悪化要因」になりうるので避けるようにとツイートした。ヴェランは熱のある人にはパラセタモール(アセトアミノフェンは欧州ではこの名前で呼ばれている)を服用することを勧めたが、その根拠は示していない。
それでも、ヴェランのツイートは世界中に広まった。米国から英国、イスラエル、シンガポール、ニュージーランドまで、あらゆる国のメディアがこの発言を取り上げたのだ。
具体的な臨床例は示されていない
仏保健省の通達の根拠となったデータはどこにあるのか。これを取り上げたメディア報道は正確なのか。複数の話が混同されたり、フェイクニュースが混じっていたりする可能性はないのか──。こうしたことの確認は容易ではない。
まず、保険省は具体的な臨床例などはまったく示していない。ただ、フランスのメディアは通達が出た日、同省は国内のある医師から、非ステロイド性抗炎症薬を「大量に摂取」したCOVID-19の感染者が死亡したという事例が複数あるという報告を受けたと報じている。
死亡した患者はいずれも若年層だが、具体的な身元などは明らかになっていない。なお、のちにニース在住の28歳の男性のケースが報じられた。この男性は、椎間板ヘルニアの手術後の痛みを抑えるためにイブプロフェンを服用していたという。
この問題についてはBBCがファクトチェックをしており、Twitter、Facebook、WhatsAppなどで拡散しているイブプロフェンに関する投稿はほとんどが、さまざまな国で「若い患者4人が死亡した」という偽情報を引用しているという。
イブプロフェンへの懸念が持ち上がった理由
フランスでのイブプロフェンの扱いを巡っては、それほど知られていない事実がある。同国の規制当局である医薬品・保健製品安全庁(ANSM)は18年、非ステロイド性抗炎症薬を巡る新たな調査を始めた。細菌感染症において、非ステロイド性抗炎症薬によって予期しない合併症が引き起こされたとの報告が複数あったからだ。これを受け、フランスの医療現場ではイブプロフェンに対する懸念が高まっていた。
イブプロフェンには、腎機能への悪影響などいくつかの副作用があることが知られている。その後、ANSMが19年に公表したリポートで、同剤の投与によって感染症が重症化した事例が00年から18年までに約400例あることが明らかになった。イブプロフェンと抗生物質を一緒に服用すると、数日以内に皮膚の感染症や脳炎、敗血症などが悪化することが確認されたという。
こうした報告があるのはフランスだけだが、同国では今年1月からイブプロフェンとパラセタモール(アセトアミノフェンの別称)の販売規制が強化され、購入する場合は薬剤師に相談することが義務づけられた。
イブプロフェンがCOVID-19に及ぼす影響については、仏当局の判断に賛同する国がある一方で、疑問視する国もあった。欧州医薬品庁(EMA)とWHOは、COVID-19に感染していてもイブプロフェンを解熱目的で服用することに問題はないとの公式見解を明らかにしている。
仮説は「論文」ではなかった
一方、『The Lancet Respiratory Medicine』で仮説を発表したスイスとギリシャの研究者たちは、この騒動からは距離を置く姿勢を示している。
バーゼル大学生物医学部教授で問題の仮説の提唱者のひとりであるミヒャエル・ロートは同大学のウェブサイトに掲載された声明で、「特定の医薬品の使用を推奨もしくは否定するものではありません」と語っている。また、患者に対しては医師の診断を受けるよう促したほか、ACE2に作用する薬剤がCOVID-19に及ぼす影響についてさらなる研究が行われることを望むと述べている。
イブプロフェンを巡る騒ぎは、新型コロナウイルスによってすでに十分な恐怖を味わっている一般市民に余計なストレスを与え、研究者や現場の医師たちを憤慨させた。また、すべての元になったLancetの記事は、査読を経た研究論文ではなく論評(commentary)だったという事実も覚えておきたい。論評は既存の論文や研究への注目を促す目的で書かれる短い文章で、著者の見解や個人的経験に基づくことが多い。
カリフォルニア在住の感染症専門医で、ジョンズ・ホプキンス大学健康安全保障センター(JHCHS)のフェローでもあるクルティカ・クッパリは、「論評とは、あくまで意見でしかないということを意味します」と説明する。「必ずしも医学的根拠があるわけではなく、これに関しては資料もないと思います」
相関関係にあるかすら確かではない
ただ、人々が信頼できる情報とウイルスから自らを守るための手段を必死に探しているような状況では、それが問題となる。抗マラリア剤のクロロキンやヒドロキシクロロキンがいい例だ。
この薬品はループス腎炎などの自己免疫疾患の治療にも使われるが、トランプ大統領やイーロン・マスクが(程度の差こそあれ)COVID-19に効くかもしれないと宣伝したことで需要が急拡大し、本来それを必要としている自己免疫疾患をもつ人が入手しづらくなってしまった。また、アリゾナ州では水槽の洗浄剤として売られていたクロロキンを自己判断で服用した60代の男性が死亡するという事故も起きている。
何らかの事象と疾病との関連性について語るとき、疫学者は「因果関係」ではなく「相関関係」という言葉を使う。これは慎重を期すためで、ふたつのことが同時に起きたからといって、それが原因と結果という関係にあるとは限らないからだ。
さらに現時点では、イブプロフェンの使用とCOVID-19の重症化は相関関係にあるかすら確かではない。イブプロフェンが本当にACE2の酵素反応の活性化を促すかは別として、COVID-19には何の影響も及ばさない可能性も十分にある。ACE2は新型コロナウイルスが細胞内に侵入する手助けはするが、RNAの複製など増殖プロセスには関与しない。
コロンビア大学公衆衛生大学院でウイルスの研究に取り組むアンジェラ・ラスムセンは、「感染しやすさを左右する要素はACE2だけではありません」と言う。「ウイルスの複製が起きるには、すべての条件が完璧に揃う必要があります。新型コロナウイルスに関しては、そもそも条件が何かということがほとんどわかっていないので、特定の細胞でウイルスの複製を加速させ症状を悪化させる要因が何かを推測することは非常に困難です」
過剰摂取が起きる理由
アセトアミノフェンの研究をしている科学者たちも、今回のイブプロフェン騒動に特に懸念を示している。アセトアミノフェンは米国で最も一般的な鎮痛剤だが、2016年にラトガース・ニュージャージー州立医科大学の研究者たちの調査によると、年間数万件の急性肝不全を引き起こしており、これによる死者数も約300人に上る。なお、皮肉なことにフランスでイブプロフェンの販売規制が強化されることになったきっかけは、アセトアミノフェンの過剰摂取で女性が死亡した事件だった。
コネチカット大学薬学部薬理学科のトップを務めるホセ・マナウトウは、アセトアミノフェンと大量のアルコールを同時に摂取すると急性肝不全が起きる危険性があると指摘する。アセトアミノフェンを服用中にウイルスが肝臓を攻撃して肝機能が弱まった場合にも、肝障害が引き起こされる可能性があるという。
ただ、過剰摂取に関しては「不幸な事故」が原因であることが多い。つまり、服用の際に薬の添付文書を読まず、不注意で規定量を上回る量を飲んでしまうのだ。
マナウトウは「例えば鼻水が出ているとしましょう」と話す。「アセトアミノフェンを含む市販の風邪薬を飲むかもしれません。熱が出たら解熱剤として『タイレノール』を買う人もいるでしょう。 さらに、夜に眠れなくて『ナイキル』を服用するとします。すべて、アセトアミノフェンが含まれています。許容量を超えてしまうわけです」
簡単な解決策がもたらすリスク
コネチカット大学薬学部教授の鐘筱波(ヂォン・シャオボウ)は、COVID-19の症状のひとつに発熱があることから、許容量超過が起きやすいと説明する。熱が出ると不快に感じるが、これは体内の温度を上げることでウイルスの増殖を遅らせるという感染症に対する人体の戦略的な対処なのだ。
鐘は、危険なほどの高熱でなければ体温はむしろ下げないほうがいいので、解熱剤はなるべく使わないようにと話す。「熱のだるさと肝障害の危険性のどちらかを選ばなければならないなら、後者を避けるべきです」
アセトアミノフェンの過剰摂取で肝臓を危険にさらすこと。イブプロフェンを拒否すること。そして極端な場合には、感染症治療のために水槽の洗浄液を飲むこと──。わたしたちがこうした行動をとってしまうのは、未知の病原体に対する恐怖から、不確かでも手近な解決策に飛びつくからである。ただ、簡単な解決策は、それなりのリスクを伴うのだ。
マリーン・マッケーナ|MARYN MCKENNA
『WIRED』US版アイデアズ・コントリビューター。医療ジャーナリスト。耐性菌をテーマにした『WIRED』US版のコラム「Superbug」へ寄稿してきたほか、公衆衛生や世界の食糧政策について執筆を行う。ブランダイス大学の研究所であるSchuster Institute for Investigative Journalismのシニアフェロー。著書に、米国疾病管理予防センター(CDC)の一部門として世界中の病気の流行やバイオテロの攻撃を追跡し、防止するための政府機関伝染病情報サービス(EIS)の活動をリアルに描いた『Beating Back the Devil』などがある。
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