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貧農から“スターの靴職人”へ 「フェラガモ」創業者の生涯をたどる - WWD JAPAN.com

サルヴァトーレ・フェラガモ美術館(Museo Salvatore Ferragamo)は、サルヴァトーレ・フェラガモ財団(Fondazione Salvatore Ferragamo)と企画した回顧展「サルヴァトーレ・フェラガモ 1898-1960」を、イタリア・フィレンツェの同美術館で開催した。

同展は、「サルヴァトーレ フェラガモ(現在はフェラガモ)」創業者がアメリカ・ハリウッドに初の旗艦店をオープンした1923年から100年となる節目に、革命的な靴職人であり、時代の先端を歩んだ起業家としての人生を讃える。企画した両者にとって、創業者に焦点を当てた回顧展を開催するのは、1985年にストロッツィ宮殿(Strozzi Palace)で開いた展示以来38年ぶり。

回顧展を企画・運営するフェラガモ美術館のステファニア・リッチ(Stefania Ricci)館長は、今回のために創業者がデザインした数々の作品を競売やeBayで新たに収集したという。テーマごとに分けた9つのスペースで、靴づくりに生涯を捧げた創業者の、創造性へのエネルギーと情熱に触れられる。

6歳で初めて靴を作り
11歳で靴屋を開業

最初のスペースでは、フェラガモが靴づくりを始めた幼少期と修行時代、創業初期を数多くの伝記や写真と共に展示する。フェラガモは1898年、イタリア南部の田舎町ボニートの貧しい農家に生まれた。6歳で妹が教会へ履いて行くための靴を作った。その後、家庭の経済的事情から小学校を3年で中退し、ナポリの靴職人のもとで修行を始めた。

11歳で地元ボニートで靴屋を開業して繁盛するも、田舎町での靴づくりに限界を感じ、わずか15歳で渡米を決意する。カリフォルニア州サンタバーバラに靴の修理とオーダーメードができる“ハリウッド・ブーツ・ショップ(Hallywood Boots Shop)”を開くと、ハリウッドの映画業界に従事していた従兄弟の知人である映画関係者が訪れるようになり、評判を呼んだ。数々の名優の靴を手掛けて“スターの靴職人”と呼ばれるまでに成長し、1923年に量産靴を販売する旗艦店をハリウッドにオープンした。

回顧展の壁に描いた格子柄は、その店での靴の陳列方法に現代的な解釈を加えて再現したもの。ハリウッドスターを顧客に抱えて靴職人として励む傍ら、南カリフォルニア大学の夜間コースに通って解剖学を学び、一人ひとりの足に合った、履き心地のいい靴づくりを研究した背景から、努力家であった一面が垣間見える。

映画館を模した2つ目のスペースでは、ハリウッド映画の衣装として制作した靴に焦点を当てる。ヒールにハンドペイントを施したヴィクトリア調のパンプスや、古代エジプトを舞台にした作品用のグラディエーター、若く美人な娼婦役ヒロイン用のセンシュアルなヒールシューズなど、物語の一部となる靴づくりに取り組んだ。衣装としての靴制作がハリウッドで評価を高め、同時に創造性も磨かれていったのだろう。

アメリカで成功を収めながらも、「機械に頼らず、技巧を凝らした靴を作りたい」という思いから、職人の町フィレンツェで自身の名を冠したシューズブランドを27年に開業した。しかし世界恐慌のあおりを受けて一度倒産し、さらに戦争という困難な時代を迎える。それでもフェラガモは、独自の靴づくりを開拓していく。

368もの特許を有する
独自の靴設計

3つ目のスペース“素材とインスピレーション”は、イタリアに戻った後の作品にフォーカスする。空間には、社会と異文化、芸術運動を着想源に生み出した、現在の「フェラガモ」にも受け継がれる代表的な作品が並ぶ。日本古来の武士の甲冑からインスパイアされて、朱色を基調にゴールドを取り入れたり、魚の皮や毛皮を使い、トスカーナ地方の伝統工芸であるボビンレースに初めて色をつけたり、シューズの装飾に採用したのもフェラガモである。

第二次世界大戦中は資源不足に苦しんだものの、靴職人のフェラガモにとってはひらめきの連続だったようだ。例えば、土踏まずに挿入する鋼が手に入らず、代わりにワイン用のコルクを使ったのが現在のウエッジソールの原点である。装飾にはラフィアや子どもたちが食べたキャラメルの包み紙、釣り糸を使った透明のストラップを生み出すなど、戦後も靴づくりに対してオープンな姿勢を貫き、素材の探求を続けた。

4つ目のスペース“均衡と解剖学”では、フェラガモが使用していた作業用テーブルやはかり、愛読書、顧客との写真と彼らの足の木型を展示する。靴職人としてだけではなく、エンジニアや建築家、解剖学の専門家としての顔が見られる。フェラガモは骨格の構造や筋肉の機能、体重の配分といった人体解剖学を研究し、土踏まずのアーチの中心にある平衡軸を発見し、足が疲れにくく履き心地のいい靴を開発した。その靴構造の研究には、大聖堂や凱旋門のアーチの建設方法も参考にしたという。奥に進むと、建築的な研究を生かし、重量と寸法を調和させた8足のシューズを展示する。

5つ目のスペースでは、特許を取得した靴の設計図が壁を埋め尽くす。絶え間ない研究と工業デザイナーに似たアプローチの結果、フェラガモは画期的な靴型を開発し、368もの特許を取得している。彼の創意工夫と才能が、現在も靴底とヒールに応用されているだけでなく、そのデザインは歴代クリエイティブ・ディレクターにも影響を与えている。56年に誕生した鳥かごを意味する“ケージ”ヒールは、現クリエイティブ・ディレクターのマクシミリアン・デイヴィス(Maximilian Davis)が2024年春夏コレクションで湾曲したデザインに再解釈した。

奥の部屋では、ブランドの靴工房で日々技術を磨く職人のドキュメンタリーフィルムを映写する。伝統と妙技を讃え、未来へつなげようとしたフェラガモは、1956年に金細工師とともに18金で装飾した豪華な作品を発表。伝統工芸を応用し、シューズデザインの可能性を広げたフェラガモの革命的なスタイルの一つに、鮮やかな色使いがある。黒か白が主流だったモノクロの靴の世界に、明るい原色を大胆に取り入れて伝統を打ち破った。“色の創造性”のスペースは、芸術家からのインスピレーションやイタリアの風景、ハリウッドでの思い出を色とりどりに表現。ハウスカラーであるレッドから、月明かりに照らされたシルバーまで、豊かなカラーパレットで彩った。

多数の足の計測から
性格診断を導き出す

最後のスペースでは、マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)やグレース・ケリー(Grace Kelly)、ソフィア・ローレン(Sophia Loren)といった名だたる映画スターや貴族のためにデザインしたシューズを展示し、“スターの靴職人”たるゆえんを振り返る。興味深いのは、セレブリティーの足を計測し親交を深めた経験から、独自の性格診断を導き出したことだ。フェラガモの自伝「夢の靴職人」の中で「私が観察したところ、サイズ6未満の“シンデレラ”に分類される女性は非常に女性的で、宝石や毛皮を好み、愛情深い。サイズ6の“ヴィーナス”は容姿端麗で洗練されているが、本質的には家庭的でシンプルな幸せを見つけ出す女性。その華やかな外見とのギャップから、“ヴィーナス”は誤解されやすい。“貴族”に分類するサイズ7以上の女性は、感受性が強く気分屋だが、寛容で共感能力に長け、他者に深い理解を示す」と綴っている。

華美な装飾からミニマルなパンプスまで、そのバリエーションが無限なまでに幅広いのは、靴を身に着ける個人の性格を深く理解し、ユニークなパーソナリティーをデザインに投影した、サルヴァトーレ・フェラガモの哲学を示している。わずか6歳で靴づくりを始め、泉のように湧き上がる発想と、履き心地への探究心で世界中の顧客のために靴を作り続け、62歳で生涯を終えた。彼の靴づくりの哲学と理念は、現在も同族経営の会社として引き継がれている。回顧展「サルヴァトーレ・フェラガモ 1898-1960」の会期は、2024年11月4日まで。

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