作物の種子を「貴重な遺伝資源」と捉え、知的財産として保護する動きが加速している。品種改良によって有用な特徴を持たせられれば、種子を農業経済資源として活用できるからだ。一方で種子は、生物多様性を維持し、私たちの生命を守る環境資源であるという側面も見逃せない。2018年の種子法の廃止と、種苗法改正案の今国会への提出といった政策面での新しい動きもあり、種子のありようが改めて注目されている。日ごろ顧みられることの少ない種子を巡って、日本はどのような状況にあるのか。現状をまとめ、未来を展望する。
遺伝資源という言葉はあまり耳慣れないかもしれない。最近の例で言えば、和牛の精子や受精卵を海外に持ち出して摘発される事件があった。霜降りのように高級牛肉を生み出す遺伝子が備わる精子や受精卵は、まさに貴重な価値を生み出す遺伝資源とみなせる。
18年の
今国会には新法案「家畜遺伝資源不正競争防止法」が提出されている。経済的利益を生む観点で言えば、和牛だけでなく様々な作物の種子も貴重な資源であり、同様に保護の動きが出ている。
商品価値を持つ遺伝資源は、生物多様性という観点からも守るべき存在と考えられる。この二つの言葉を合わせて「遺伝的多様性」と呼び、作物に食を求める私たち人間にとっては極めて重要な概念だ。
例えばある作物が特定の品種に限られていて多様性がなかったら、その品種に疫病が流行した場合、全く収穫できなくなる可能性もある。19世紀半ば、アイルランドは当時の主食ジャガイモが疫病で全滅状態になり、国民は飢餓に苦しんだ。作家司馬遼太郎の「街道をゆく」アイルランド編で、ジャガイモ
「自国を説明するとき(中略)アイルランドのひとたちや、アメリカのアイリッシュが、ほとんど
アイルランド史には「大飢饉前」「大飢饉後」という時代区分があるとされ、当時、人口900万の同国で100万人が餓死し、150万人が米国に移住したと司馬は書く。後に米大統領に就くケネディの曽祖父と祖父も、大飢饉を逃れて米国に渡った移民だったという挿話を紹介している。
国の全土でジャガイモの同じ品種(ランパー種)しか栽培していなかったために起きた疫病被害とそれに続く飢饉は、足かけ5年に及んだ。当時、遺伝的多様性という考え方は確立していなかったが、違う品種をいくつか栽培していれば、これほどの飢餓は回避できたのではないか。食糧安全保障という表現は大仰ながら、人類にとって生物多様性の重要さを示す典型例だと言えよう。防疫学や育種技術の発展した現代で、こうした大飢饉までは想像しにくいが、1970年に米国で起きた「トウモロコシごま葉枯れ病」で同国内のトウモロコシの収穫量が前年比11%減少し、99年にウガンダから発生した小麦の「黒さび病」がアフリカ諸国などで大きな被害をもたらし収穫を大幅に減らした。いずれも耐病性のある品種を育てていなかったことが、結果的に収量ダウンにつながる要因と考えられている。
疫病だけではない。気候変動を考慮すれば「暑さや乾燥に強い」「寒冷でも育つ」など様々な特徴を持つ種子が当然そろっていた方がいい。種子に多様性があるということは、最終的に私たちの生命を守ることにつながるのだ。
ここで生物多様性とは何かを概観しよう。
多くの人は「生物多様性」という言葉を、生物多様性条約によって知るに至ったのではないだろうか。
同条約は正式名称を「生物の多様性に関する条約」といい、生物多様性の保全と持続的な利用、さらにそこから得られる利益の公平な配分を目指して1993年に発効した。196の国・地域が加盟している。
「手つかずの自然」という言い方があるように、人の手が入らない自然は、生態系の目に見えないルールに従って繁栄消長を繰り返していく。これに対し作物の種子は、人間が手をかけないと維持・保全は難しい。
そうした観点から条約は、生物多様性について、(1)干潟や原生林のような生態系(2)絶滅危惧種やありふれた自然環境の中にいる様々な生物種(3)作物や家畜の遺伝資源のように種内レベルでの多様な遺伝子――という三つの異なるレベルがあると定義する。
さらに条約は、生物多様性の「保全」を最重要に位置づける。その一方、経済活動に関して言うと、遺伝資源を保有する国家の主権ともいえる権利を認めたのが特徴だ。「富める大国の独り勝ちを許さない」とでも言えようか。例えば、先進国の研究開発機関が途上国にある種子をもとに品種改良をして、どんな厳しい環境でも育って多くの収量が期待できるうえに栄養価が高く味も良い「超優良な」種子を開発した場合、先進国の開発者側がその
他方で、この条約を見ていると、「遺伝資源としての種子は一体誰のものなのか?」という疑問がわく。所有の主体は国家なのか、新たな品種を生み出した個人・組織なのか、それとも作物を育てる農家のものか?そもそも作物の種子は、人類共有の財産であって所有という概念になじまないのではないか?
旧来の考え方で言えば、「遺伝資源は人類共有の財産」と捉えられていた。実際、国連食糧農業機関(FAO)が1983年にとりまとめた国際的申し合わせに、この考え方は明記された。作物の遺伝資源管理に詳しい西川芳昭龍谷大学教授は「様々な立場があり、種子は誰のものかという問いに対する答えは違ってくる」と語る。多様性は守りつつ経済的価値を生み出すには何がベストなのか。それぞれの立場でどのような主張がなされているのか、ここで関連する条約を整理しておく。
1968年発効で最も古い「植物の新品種の保護に関する条約」では、新品種を生み出した当事者に育成者権があると認めている。新品種を完全に囲い込んで排他的な振る舞いを許しているわけではないものの、おおざっぱに言えば育成の努力・功績を認め、一定の利益を得ることができるとしている。「種子は商品価値のあるもの」という立場からすれば至極まっとうな内容だろう。
もう一つは、2004年に発効した「食料及び農業のための植物遺伝資源に関する国際条約」だ。植物遺伝資源に絞って適正な利用・保全と公正な利益配分をめざす点では生物多様性条約に通じるが、特徴的なのは、実際に種子を維持・保存してきた農民の権利を認め、例えば利益配分の決定過程には農民に参加する権利がある、などとうたっている。
三つの国際条約を見ると、いずれもそれなりの理屈がある。西川教授によれば現状は、種子を「経済価値を持つ投資の対象」「地域・農民のもの」とする考えがせめぎ合い、「人類の公共財産」という主張も加わって、それぞれの国や地域、国際機関が、種子を持続的に利用できるシステムとして「最も良い形」を探っている状態だという(注1)。少なくとも農業の遺伝資源として種子を利用する場合には、種子を守り育ててきた当事者と合意の上で提供を受けるという大原則は守らなくてはなるまい。
さらに言えば、現代の種子は「投資の対象」と前述したように、ゲノム編集技術に代表されるバイオテクノロジーの進展によって、経済的価値を生む可能性が一昔前に比べてより一層高まっている。巨大バイオ企業が巨億の儲けを稼ぎ出す「スーパー種子」を生み出してもおかしくない状況だ。
こうした経済トレンドを背景に、今回の日本の種子法廃止、種苗法改正の動きは出てきている。まず種子法を説明しよう。
この法律は主要農作物種子法と言い、1952年に制定された。戦後の食糧難の経験から、安定的な食糧増産を狙ってコメ、麦、大豆の優良品種の種子を国の責任おいて生産するのが目的だった。実際には、国から委託を受けた都道府県が農業試験場などで品種改良を行い、それぞれの地域に合った種子を作り出し、安定的に供給してきた。
同法は農家の営みを長年にわたり支えてきた“縁の下の力持ち”だった一方で、都道府県の「奨励品種」という官製おすすめ品を皆が栽培する堅固なシステムが築かれ、個別の農家が抗うのはなかなか難しかった。これを西川教授は「農家が品種を選ぶ権利と能力を奪ってきた側面もある」と表現する(注2)。
裏を返せば、種苗企業にとっては岩盤規制の類いであり、種子供給システムへの民間参入を事実上閉め出していたことになる。種子法廃止が政府の規制緩和策の一環で行われたことにより、民間の新たな種子開発のモチベーションは高まる。種苗企業側にとっての“儲かる種子”を流通させる余地も出ている。
では民間参入は雪崩を打ったように進むのだろうか。実のところ、大きな変動は当面起きない。というのも、都道府県がそれぞれに種子条例を制定し、廃止された種子法の趣旨を地元自治体の責務として引き継ぐ動きが広がっているからだ。条例は既に15道県で施行され、9県で条例案が準備されたり、検討会が設置されたりしている。西川教授は、生産者・消費者が廃止に不安を感じ、自治体に働きかけた結果ではないかとみる。
主食のコメを含む基幹農作物だからこそ、種子の排他的・囲い込み的な従来型のやり方を堅持していくべきなのか? あるいは、民間活力を導入して少しでも“強い農業”を目指すのか? どちらが良いか簡単に白黒はつけにくい。
一方、今国会には種苗法改正案が提出されている。品種開発の権利を保護するのが主な目的の法律で、一般には種子法より聞き覚えがあるだろう。今回の改正の主要な論点は、和牛の遺伝子持ち出しに見られる事例の反省に立ち、(1)優良品種の海外流出を防ぐための厳罰化(2)登録品種における農家の自家採種の禁止――の2項目だ。
この(2)の措置について野菜で説明する。野菜は、開発者の知的財産権について国からお墨付きを得る「登録品種」と、それ以外の「一般品種」に分類される。一般品種には、限られた地域で代々細々と作られてきた伝統野菜や、25年の登録期限が過ぎた品種などが含まれている。
野菜を栽培する農家は通常、種子を種苗業者から購入して育てる。もう一つの方法は、育てた野菜から種子を自分で採り(自家採種し)、翌年にそれを育てる昔ながらのやり方だ。
これまで自家採種について種苗法は「原則自由、例外(採種禁止品目)あり」のルールだった。先述の植物新品種保護条約では「原則禁止、例外を認める」となっており、日本は国際標準とは一線を画していた。知的財産に関する権利意識は近年強まる一方で、日本の種苗法でも自家採種を認めない例外品目は、2016年までは82種だったが19年には387種に急拡大した。今回の法改正も国際条約に沿った形にして、品種開発者である有力種苗企業の知的財産権をより強力に認める。政府は改正法案を今国会で成立させ、21年春の施行をめざしている。
改正法案では一般品種の自家採種までは禁じてはいない。ただし、国際ルールに足並みをそろえることは、経済性重視により将来的には登録品種か否かを問わず、自家採種の原則禁止に歩を進めかねないと農業関係者から懸念の声も出ている。少なくとも一般品種では自家採種を残す、という大きな方向性を政府は明確に示すべきではないか。
種子法を廃止し、種苗法を改正する一連の動きからは、民間の種子ビジネスを活性化させたい政府の思惑が見える。農水省によれば、世界の種苗の市場規模は450億ドル(約4兆9000億円)程度とみられている。種苗企業の世界トップ10には日本企業も食い込んでおり、競争は激化する一方だ。
米国の広大なトウモロコシ畑を想像してもらいたい。生産性を重視し、大規模で機械化された現代農業は結局、均一の種子を効率よく栽培する形に集約される。農家の自家採種による伝統野菜の栽培に象徴されるような、少量・多品種が各地域で育てられ、種子の多様性を次代に引き継ぐ状況とはいかにも相いれない。野菜に関して言えば、日本で栽培するもののうち90%を企業が開発・育成した種子が占めているとされる。しかもその大半が海外で栽培されたものだ。日本企業ですら海外での種子育成に力を入れており、野菜の種子はほぼ海外依存の状態といえよう。
前述の食料農業植物遺伝資源条約では、種子の所有権は農家にあるとの立場を尊重している。「種子は誰のものなのか」という根源的な問いに、明快な答えがない現状にもかかわらず、企業による種子の占有が拡大し、儲かる品種しか作らない農業へと世界は向かいつつある。それが結果的に、在来品種を消滅へと追い込んでいるのだ。種子を巡る現状の一側面にすぎない「経済的価値」だけを重く見る流れが既成事実化している。
ここで思い出すのは、さいとう・たかをの劇画「ゴルゴ13」の一作、「害虫戦争」だ。米国のあるバイオ企業は種子による世界支配をもくろみ、トウモロコシの害虫に耐性のある種子を遺伝子組み換え技術によって作り出す。一方で、害虫を人為的に大発生させて既存のトウモロコシを全滅に追い込み、自社の種子を世界中のトウモロコシ農家が買わざるをえない状況を作る。バイオ企業の野望を察知した中国の高官が超一流の狙撃手であるゴルゴ13に破壊工作を依頼し、ゴルゴとバイオ企業の暗闘が繰り広げられるという物語だ。
本作は18年前に発表された。遺伝子組み換え技術が世界中で論議の的になっていた時代だったとはいえ、現代の種子ビジネスから着想した、と言っても不思議ではない先見的なストーリー展開だ。
ばらつきのない品質や同じ時期に安定した収量が期待できる「種子の経済性」は、私たちの食料を支える基盤になっている。企業による営利追求至上主義はけしからんなどと軽々には否定できない。とはいえ、種子のありようが企業側の論理だけで左右されかねない現状の功罪について、私たちは深く考え、知恵をもっと絞るべきだろう。
作物が一部の品種に偏って栽培される状況は、「遺伝的浸食」と呼ばれる。浸食が進む現代で、経済性と多様性がバランス良く両立する妙手を生み出したい。
種子をめぐる問題で、近年もう一つ注目を集めているのが、それぞれの地域に独特で、少量生産されている在来品種の保全だ。前述した野菜であれば、地域に根ざした一般品種の栽培で、これらは「伝統野菜」と呼ばれ、練馬大根(東京)や千枚漬けの聖護院大根(京都)といった地名を冠したものが多い。京野菜や加賀野菜のようにブランド化したものはよく知られているが、全国には無名の伝統野菜があまたある。
農業が近代化される以前は、農家は自分たちで種子を採って来シーズンに
伝統野菜を巡っては、都内の高校生が運営している種子会社が話題になっている。18年に設立された会社は「
小林君は夏休みなどの休暇中に全国を回り、地方の種苗店で売っている伝統野菜の種子を購入し、それを小分けにして東京、神奈川の書店、絵本店、医院などに置いてもらい、委託販売の形をとる。またインターネットでも販売している。小林君は都内と群馬県内に畑を借り受け、伝統野菜などを栽培して、イベントで販売もする。
こうした活動を多くの人にもっと広く知ってもらおうと「タネの未来」という著書も昨年秋に出版した。著書の中で小林君は今後について、全国各地で行われているタネ交換会を、インターネットを通じて地域を越えたものすることをめざすと宣言している。いわば全国規模のタネ交換会が行えるプラットフォーム作りだ。
一方、種子を貸し出す「タネの図書館」という活動も徐々にではあるが各地で始まってきた。
「タネの図書館」は元々、米カリフォルニア州で始まったとされる。米国を手本にしたという兵庫県の豊岡市立図書館では、同様の事業を2017年に始めた。図書館活動の幅を広げる狙いだが、「植物に親しんでもらい、種子に対して市民の関心を広げたい」という思いもある。本と同じく図書館のカウンターで花の種子など計7品目をこれまでに市民に貸し出している。種子が採れたら図書館に持参してもらう試みだ。今春は伝統野菜の「クロヅル」(黒豆の一種)を住民から提供されたことを受け、新たな種子として配布を予定している。「タネの図書館」は、島根県津和野町の種苗店や沖縄県那覇市のカフェでも行われており、いずれも地域の住民向けに地元の伝統野菜の種子を貸し出している。
農耕開始以前に人類が食用にしていた作物は約1万種あったが、20世紀後半には400種余りにまで減ったとされている。西川教授によれば、日本国内のイネは19世紀末に3000品種ほどあったものが、現在は400品種にまで減少しているという。
伝統野菜に関して言えば、先人の様々な調査から、日本全国でネギは69品種、ナス67品種、キュウリ50品種など、どんなに少なく見積もっても1200品種を上回る種類があったとされる(注3)。このうち相当数の品目が既に消えてしまったことは想像に難くない。作物の種子はあくまで人間の管理下にあり、“儲かりそうな品種”に席巻されて、希少品種のマーケット(農家の需要)がなくなれば、市場原理の常とはいえ消滅する。
巨大バイオ企業の動向は、今後も目が離せない。しかし、農業関係者や識者がどれほど「種子の多様性も大事だ」と声高に呼びかけたところで、それぞれの地域に暮らす人たちが種子の価値を再認識しないことには、多様性はどんどん失われていくだろう。
種子法自体が極めて地味な法律で、私たちが意識する機会はほとんどなかった。廃止されて初めて、「そういう法律があったのか」と知った人が大半だろう。種苗法改正論議も報道される機会は少なく、市民にはどうも縁遠く感じられるはずだ。
そんな中で起業した小林君は、「タネについて考えることは、人類共通のテーマであって永遠のテーマでもある」と訴える(注4)。種子法廃止、種苗法改正の動きは、種子と社会との関係性を改めて考える機会になるかもしれない。
国の農業政策に比べれば、伝統野菜を作り続ける農家の営みや、高校生のタネ屋起業、種子の図書館などは本当に小さな活動に過ぎない。ただし、小さな試みが積み重ねられてこそ、生物多様性を保全する意識が市民の間に醸成されてくるのではないだろうか。それはまさに、小さな種を一粒一粒、大地へ植える地道な仕事に似ている。種子に無関心ではいられない時代に、私たちは巡り合わせたのだ。
注1西川芳昭「種子が消えればあなたも消える」(コモンズ)39ページ
注2同226ページ
注3成瀬宇平、堀知佐子「47都道府県 地野菜/伝統野菜百科」(丸善株式会社)333~334ページ
注4小林宙「タネの未来」(家の光協会)153ページ
竹下大学「日本の品種はすごい」中公新書
西川芳昭「持続可能な種子の管理を考える」国際開発研究第28巻第1号
農林水産省「優良品種の持続的な利用を可能とする植物新品種の保護に関する検討会」提出資料
東京農工大「変わり種工房」ホームページ
"から" - Google ニュース
May 01, 2020 at 08:00AM
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