
「よみらくご」総合アドバイザー、演芸評論家の長井好弘さんが、演芸愛いっぱいのコラムをお届けします。
猛暑の8月3日、東京・下北沢の本多劇場で、<志の輔らくごin下北沢2021「牡丹灯籠」> (注1) を観た。
2006年からほぼ毎年、同じ劇場で同じ内容の公演(「牡丹灯籠」の通し公演)を行ってきたが、去年はコロナ禍で中止になったので、僕ら観客にとっては2年ぶりのチャレンジである。
チャレンジという言葉を使ったのには意味がある。僕は毎回、開演直前に、劇場ロビーの片隅で「よーし、しっかり観るぞ、ばっちり聴くぞ!」と自分自身に気合を入れる。そのぐらいの覚悟で観るべき公演なのだ。だから、客席にいる僕らはまぎれもない挑戦者なのである。
とにかく、この公演は普通の落語会ではない。演者である立川志の輔の言葉を借りれば、こういうことになる。
「円朝の代表作であり、大長編である『牡丹灯籠』は、全部上演すると30時間ぐらいかかります。私はその全編を2時間半にまとめてお伝えするつもりです。そうはいいながら、昨日(初日の8月2日)は2時間35分かかりましたが(笑)」
つまり志の輔は、30時間を2時間半に凝縮したものを落語として成立させ、それを満員の観客すべてにきちんと伝えようというのである。これはもう我々が普段親しんでいる落語会ではない。壮大な落語イベントと言うべきものだろう。
さらに驚くべきことには、志の輔はこの爽快かつ無謀な試みに、飽きもせず疲れも見せず(疲れてるだろ!)、十数年挑み続けているのだ。
まったくもう、志の輔という落語家にはあきれ返るしかない。
では、志の輔はどういう形で、どんな構成で大長編の「牡丹灯籠」の全編を演じるのか。
公演は2部構成だ。
まず第1部は「カルチャーセンター落語」とでもいうべきか。
「牡丹灯籠」の攻略のためには、まず、やたらめったら多い登場人物を整理分類して、頭の中に相関図を描くのが、最もいい方法だ。
志の輔は、巨大なマグネットボード(志の輔が長く司会を務めるテレビ番組「ガッテン!」のスタッフの手作りらしい)を舞台中央にデーンと置き、このボード上に、用意した登場人物の名札を貼りながら、「孝助伝」 (注2) のストーリーを語っていくのである。
ある時は落語のよう、ときには随談のようにも聞こえ、全体はカルチャーセンターで名講義を聴いているような……。
主君・飯島平左衛門の
あっという間の四十数分。これだけの時間で、全体の半分にあたる15時間分の物語を、果たして僕は頭にいれることができたのか。「もちろん」と答えるために、僕らは気合と覚悟を持って集中していたのである。
そして第2部。ここからは、高座の上で座布団に座っての「落語」である。
根津の清水谷に住む若き浪人、萩原新三郎の家を、お
僕らが「牡丹灯籠」と聞くと、まず思い出す怪談ラブストーリー「お露新三郎」の幕開けである。
残り15時間分を1時間チョイでまとめなければならないのだから、寄り道をしている余裕はないはずなのに、志の輔は所々で気まぐれな脱線をしてみせる。中盤を過ぎて、「越後の村上」という地名が出てくると、当地の名物「塩引き鮭」から、前座時代に彼の師匠・立川談志の家で食べた一切れへと話がつながっていくのである。
「私の故郷の富山では新巻き鮭ですが、村上は塩引き鮭というのですな。ここ出身の政治家から送られてきた塩引き鮭を、師匠と二人で一切れずつ食べた。その後、師匠が『夕飯はなんでも好きなものを食べていい』と言って出かけた。『何でも好きなものを』の中に冷蔵庫の塩引き鮭は入っているかな。入ってないだろう。でも、『もう一切れ食べたい』という気持ちが抑えられない私は……」 (注3)
こんな脱線も交えながら、「牡丹灯籠」の本当の主役とも言われる、伴蔵、おみね夫婦の悪への転落を丁寧に描いていく志の輔。女房おみねを殺し、江戸へ出て相棒になったはずの山本志丈まで手にかけた伴蔵が、とり方に追われて逃げる途中、孝助と出くわす。
「皆さん、忘れたとは言わせませんよ」
第2部が始まって2時間余り。全く接点がないと思われた二つの物語の主人公、孝助と伴蔵が出会い、ここで初めて、「牡丹灯籠」は一つの物語になったのである。
原作通りの大団円を迎えた後、憂歌団のブルース「胸が痛い」が会場に流れ、志の輔独自のエンディングがあって、本当の幕になる。
ああ、今年も「牡丹灯籠」の通し公演を体験した。疲れたけど、一度も眠らなかった――。聴き終わった直後の感想は陳腐なものである。
毎年同じ内容の、長くて細かくて疲れる落語イベントに、なぜ毎回付き合うのか。僕には僕の理由がある。
仕事柄、「牡丹灯籠」を知らぬではすまされない。これまでに原作を何度も読み、それについての文章を書き、人前で解説もしてきた。だから「牡丹灯籠」は全部頭に入っている。と、思ってはいるのだが、どこか抜けている場面はないか、勘違いしている部分はないかと、不安になることもある。
そんな時、志の輔の「牡丹灯籠」を観て、我が頭の中にもある「それ」を確認するのである。いろんな発見も反省もあるが、何よりも考えさせられるのは、毎年、あちこち忘れていることに気付かされることだ。
「皆さん、また来てくださいね。大丈夫です。来年の今頃は、すっかり(物語を)忘れてますから。私も同じです。毎年、速記本を一から読み直して、新しい発見があるんです」
そう、忘却と発見が「志の輔らくご」の
ちなみに僕が観た日の「牡丹灯籠」は、2時間45分だったと思う。
30時間を2時間半で――志の輔流「怪談牡丹灯籠」の潔さ - 読売新聞
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