写真が世に出たことで、私の周囲は急に騒がしくなっていきました。自分があずかり知らないところで、「赤い背中の谷口稜曄(すみてる)」はどんどん有名になっていったんです。
原水爆禁止運動の初期から関わってきた私ですが、職場で頼まれて話す以外、人前で被爆体験を語ることはほとんどありませんでした。当時は欧州遊説に行った山口仙二さんや、車いすで反核を訴えた渡辺千恵子さんが被爆者の「顔」。背中の傷やえぐれた胸をさらけだして見せ物になるのが嫌だった私は、運動を陰で支えることが主でした。
今でこそ被爆者が修学旅行生らを相手に講話をするのは当たり前になっていますが、それは1980年代になってから。写真が出た70年は、被爆体験の記録運動が盛り上がり、相次いで証言集が発刊された時期です。私も、長崎原爆被災者協議会の証言集第2集に、初めて体験記を寄せようとしていたところでした。そんな状況なので、古くから活動を共にしてきた仲間でも、私の体験を知らない人が多かったんです。「あげんひどかったとねぇ」と何人からも言われたのを覚えています。
70年7月に発売された写真誌「アサヒグラフ」で、赤い背中の写真が見開きで使われたこともあり、全国から次々に手紙が届きました。「痛かったでしょう」という同情の手紙に目を通し、思いました。
「原爆の苦しみは『痛かった』だけじゃないんだ。誰がこんな目に遭わせたのか、誰のせいでなったのかを分かってほしい」と。
入れ代わり立ち代わり訪れるようになった記者に体験を詳細に説明したのは、写真だけでは被爆の実態が伝わらないと思ったからです。どこから聞きつけたのか、英国のヨークシャーテレビも長崎まで取材に来ました。カメラの前で上着を脱ぎ、生々しい背中の傷をさらしたのはこのときが初めてでした。大会や集会で話す機会も増えた。人前で話すのは苦手だし、傷のせいで大きな声も出せなかった。最初のうちは嫌々マイクを握っていたと思いますね。
仙二さんや千恵子さんのように、自ら進んで先頭に立ったわけじゃない。引っ張り出された表舞台に戸惑いながら、「写真が世に出た以上は仕方ない」と徐々に先頭に立つ決心を固めていったんです。(聞き手 久知邦)
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「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が米国で発行されました。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募りました。
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August 22, 2020 at 09:02AM
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立たされた表舞台 戸惑いから決意へ 原爆を背負って(46) - 西日本新聞
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