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【特別コラム】コロナと生きるということ(1)不安の正体(新潮社 フォーサイト) - Yahoo!ニュース

 新型コロナウイルスが発生したことを私たちが知ったのは、2020年に入ってまだ間がない頃だった。それから半年ほどがたち、このウイルスの性質も少しずつわかるようになってきた。とともにウイルスの広がりは、私たちの社会の脆弱性も暴きだした。現代社会の構造が、感染の広がりとどのように関係しているのか。そして私たちの社会はこれからどんな変化をみせるのか。そのことを課題にしながら、現時点でみえていることを考察してみようと思う。 ■「わからないもの」との共存  現在までの発表によれば、新型コロナウイルスの感染者が中国、武漢で最初に発見されたのは、2019年11月のことだった。翌年になると、武漢の惨状が世界に伝えられていくようになる。爆発的な感染の広がり。医療崩壊。病院の廊下で息を引き取る人たち。ふえつづける死者。有効な治療方法の不在。テレビにはセンセーショナルな映像が流れ、それはさまざまな人々に、不安と怯えを与えることになった。それほど時間をおくことなく感染は西ヨーロッパ諸国からアメリカへと拡大し、さらに全世界に広がっていった。  感染拡大がはじまった当初は、このウイルスがどの程度の感染力を持ち、重症化率や致死率がどのくらいなのかもよくわからなかった。だがいまでは、ある程度の判断が可能になっている。どうやらこのウイルスの致死率はさほど高くなく、インフルエンザとそう大きくは変わらないようだとか、にもかかわらず血栓ができるなどして急速に重症化するときがあるとか、一部の感染症の薬が効果をだすことがあるとか。  とともにコロナとの「戦い」、「戦争」といった語り口が当をえていないことも明らかになった。このウイルスを撲滅することなど不可能なのである。私たちはこのウイルスとともに社会を維持するほかない。課題はウイルスと共存可能な社会をつくる方にある。おそらく誰もが期待しているような効果的なワクチンは、よほどの幸運が重ならないかぎり簡単には登場しないだろう。  遺伝子分析が容易になった今日では、理論的には、ワクチンをつくることは簡単である。だがそのワクチンが、効果と安全性の両面で使用可能になるのかといえば、多くの場合はそう簡単にはいかない。仮にうまくいったとしても、効果がどのくらい持続するのかもわからない。有効なワクチンが登場する前には、いくつもの高い壁が立ちふさがっていると思った方がいい。そして仮にワクチンが長期にわたって登場しないとすれば、少なくとも過半数の人たちが感染し、社会が集団抗体をもつようになる他ないのである。  ところがこの方向を目指したスウェーデンで抗体をもつ人が想定していたほど広がっていないとか、感染した人の3割は抗体をつくらないというような分析もでている。もちろん現在だされている研究が将来否定されることもあるだろう。といっても、わかりやすいウイルスではないことだけは確かなようだ。  とすると、こうなる。コロナウイルスと共存するとは、わからないものと共存するということである。ウイルスという目にみえないものと共存するとともに、多少はその性質がわかってきたとはいうものの、正体をつかみきれないものと共存する。 ■「わかっている」という共同幻想  ところが現代人にとっては、それはきわめて苦手な課題である。なぜなら現代世界は、部分的にはわからないことがあっても、基本的な骨格はわかっているかのごとく成立しているからである。わからないものが自分たちを包み、しかもそれと共存しなければならない現実は、人々に不安と怯えを与える。  日本で感染が広がりはじめたとき、不思議な現象が起こった。たとえばテレビにでているキャスターや有識者たちが「科学的」とか「エビデンス」という言葉を連発していたのである。科学的な裏付けのある対策をしなければならないとか、同じような意味だが、エビデンスにもとづいてというような感じで。  これは噴飯ものである。なぜならウイルスの性格がほとんど何もわかっていなかったのだから、科学的にとらえようにも、とらえようがないからである。だがテレビの出演者たちは、科学的裏付けのある正しい対策をと主張しつづけた。ありえないことを求めていたのである。  そしてこの現象もまた不安からくるものだった。わからないものが忍び寄っていることへの不安。この不安から逃げ出そうとする意識が、「科学的」、「エビデンス」といったものに執着する感情を生みだしていた。  本当は私たちの世界はわからないことだらけなのである。そもそも自分が生まれた根拠もわからないし、死の意味もわからない。誰もが幸せや健康を求めているが、もしも「その幸せは幻想にすぎない」といわれたら、私たちはそれを否定する明確な言語をもっていない。あるいは「病名がついていなければ健康なのか」と問われれば考え込むばかりである。私たちは自分の本質もわかっていないし、他者のことも、この社会のことも、ましてや諸外国や世界のことも、すべてがわかっていることよりもわからないことの方が膨大なのである。根本的なありようとして、私たちはわからないものに包まれて生きている。  にもかかわらず、基本的なことはわかっているのだという共同幻想を成立させて営まれているのが現代社会である。近代以降の世界は、すべてのことを科学が明らかにしていくという諒解の上に成立している。  だからこそ、新型コロナウイルスというわからないものに包まれはじめたという感覚は、私たちに根本的な不安を与える。その結果、科学的とかエビデンスという言葉にしがみつき、専門家の言葉に依存しようとする。だがこのウイルスについては専門家も確実なことはほとんどわかっていないのだから、本当なら断定的なことは言えないはずなのである。たとえばロックダウンや「自粛」「ステイ・ホーム」は効果があるのかと聞かれれば、まともな専門家ならあるかもしれないし、ないかもしれないという他ない。わからないから、とりあえず思いつくことをみんなで試みてみましょう、というのならよいが、あたかも科学的な裏付けがあるかのごとく顔をして国民を脅す専門家がいかに多かったことか。それは専門家と称する人たちの問題点でもあるが、わからないこととともに生きる作法をもたない私たちがつくりだした現実でもある。 ■関係的生命に敗北する個体的生命  もうひとつ、次のことも述べておかなければならない。私たちは生命はひとつひとつの個体として成立しているという暗黙の了解をもっている。私は私という生命だし、あなたはあなたという生命だというように。  ところがウイルスはそういう生命ではなかった。二重の意味で関係的生命だった。  ひとつにウイルスは関係する世界のなかに生存の基盤をつくっている。自然の生物と自然の生物の関係のなかで漂うように生きるウイルスもいるし、自然の生物と人間、人間と人間の関係を基盤とするウイルスもいる。今回の短期間での感染の広がりも、グローバルな世界のなかで、他者との関係をもちながら人々が生きている時代が生みだしたものである。関係し合う人々のなかを移動しなから、ウイルスは自己の生命を展開させた。  第2にウイルスは、ひとつひとつのウイルスが単体で生命体なわけではない。ひとつひとつのウイルスが関係し合いながら、全体でひとつの生命世界をつくりだすのである。だからひとつひとつのウイルスを退治しても、それがウイルス的生命の終焉にはならない。ウイルスは宿主のなかで生きているから、その宿主が死去すれば体内のウイルスも死亡する。だがそのことによってウイルスの生命のありようは終焉しない。ある部分で増殖し、またある部分では死滅する。それをくりかえしながら自分の生命世界を守っていく。人間の細胞も同じようなものだ。たえず細胞の一部は死を迎えている。だが細胞の一部はたえず生まれている。そのことによって人間の細胞的生命は持続する。ひとつひとつの細胞で独立した生命なわけではなく、死亡や誕生をくりかえしながら全体でひとつの生命である。ウイルス的生命は、細胞的生命に似ている。  関係のなかをさまようように生き、全体でひとつの関係的生命でありつづける。それがウイルスである。  そしてだからこそ現代人は、この生命のありように不気味なものを感じた。現代人が暗黙の了解にしている個体的生命観。それがウイルスの前では通用しなかっただけではなく、関係的な生命に個体的生命が敗北していく。感染の広がりや死者の増加の奧には、自分たちの生命観が否定されていく怖さ、そこから生じる不安があった。  だが、本当は人間をふくめてあらゆる生命体は、関係的生命なのである。たとえば私たちは生命を維持するためには食事をしなければならない。食事をするということは、さまざまなものと関係を結ぶということだ。農作物は自然と農民がつくりだしたものである。ということは、食事をとおして自然とも、農民や漁民とも、彼らに資材を提供する人々とも、さらには流通、小売り、調理や加工をする人々とも関係が取り結ばれている。現代社会は食べ物を単なる商品としてとらえる精神の習慣に埋没しているから、それが感じられなくなっただけで、私たちもまた、自然やさまざまな人々の労働と結ばれながら生命を維持していることに変わりない。人間もまた、関係し合いながら生命を維持しているのである。私たちは仕事をとおしてさまざまな他者と関係を結び生命を再生させる。家族や友人などと関係を結んで、生命を再生産させている。  さらに述べれば人間も個体的生命でありながら、同時に人間という「類」として類的生命でもある。ある人はなくなり、ある人は誕生する。それを内包させながら、人類という類的生命は生きつづけている。  とするとこういうことになる。すべての生命は類的生命、関係的生命なのに、現代人はそれを否定する精神の習慣をもっていた。すべてのものを商品という個体でとらえ、自分たちもまた個体的生命としてとらえる。この精神の習慣が倒錯でしかないことを新型コロナウイルスは示した。だからウイルスの広がりに、私たちは自分たちの社会観や生命観が否定されていくような怯え、不安を抱いた。自分たちの錯覚が指摘され、しかも関係的生命にむしばまれていくという不安である。  とするとコロナウイルスは、私たちの社会のありようそのもののとらえなおしを要求していることになる。  

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